この世で豊かでも、獣のような人生

3/10:受難節第四主日宣教「この世で豊かでも、獣のような人生」     

詩編49:14~21  眞柄光久牧師

 応答讃美歌:218番「恵みにかがやき」

 

・映画やドラマをネットで配信するNetflixでアメリカのドラマを見ます。法廷ものが好きなのでよく見ます。

・アメリカには陪審員制度というものがあり、地域の住民からランダムに選ばれた12人の陪審員を説得しようと、弁護士と検察官が陪審員たちに被告の無罪、有罪を求めて、丁々発止の論議を展開します。見ている方は無罪か、有罪かで、はらはらドキドキさせられます。

・ドラマですから、脚本通りのセリフなのでしょうけど、彼らの発言にはすごいものがあります。

・嘘を真に、真を嘘にするのがそれぞれの腕の見せ所です。

・この世での幸福、栄誉を求めるのがいいのか、それとも次の世で求めるのがいいのか。今日の詩編を書いた詩人は、この世の幸福より、次の世での幸福を求めよと主張する。

・しかし、この世の多くの人は、次の世があるかどうかも分からないのに、次の世で幸福を求めるなんてありえないとばかり、この世での、富、幸福、栄誉を求めます。

・詩人はいいます。この世で、どんなに富を持っていても、栄誉に恵まれても、幸福であっても、死んだら何一つ持っていけない、体一つで死んでいかなければならないのだよと。

・神の法廷では、陪審員はいません。弁護士である主イエス・キリストと悪魔の検察官しかいません。イエスは言葉だけでなく、ご自分のいのちまでも差し出して、罪ある被告を無罪にしてくださいました。なぜなら、次の世で永遠の命をいただくことが人間の真の富、栄誉、幸福であることを知っておられるからです。

眞柄光久牧師

                                

3/17:受難節第五主日宣教「イエス、私の真の友」

詩編55:1~16  眞柄光久牧師