11.06: 宣教「成人であるものの向上」(フィリピ3:12~16)
福井正躬協力牧師
応答賛美 新生556「恵みの高き峰」
・起きがけに、ちょっとふらついて、倒れそうになる体を右手で支えようとして、手首で受けてしまい、骨折してしまいました。日曜日の早朝だったので、天領病院の夜間救急受付に行きました。
・そしたら、大変、診察、レントゲン、透視。・透視という聞きなれない言葉。高を食っていたら、これが痛いのなんのって、折れた所を、医師が麻酔もなしに思いっきり引っ張るのですから、激痛も激痛、人生でこんな激痛に合ったことがありません。
・折れたと思ってから、ずっと神に祈り続けた、どうか、折れたのではなく単なる捻挫程度でありますようにと。礼拝に影響でないようにしてください。
・2月には、足の骨を折り、今度は、手首の骨を折りました。
・すべての出来事の背後には神の摂理があり、偶然ということは絶対にないと信じている私ですから、この意味は何なのだろうと考え続けました。
・マタイ5章21節を考えました。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄になげこまれないほうがましである。」。
・この意味、わたしたちには永遠の命、すなわち新しい体、魂、霊が与えられることを言っている。地獄に落とされてしまったら、それができなくなるではないか。そうか、イエスはそういう意味で、ここの個所をそのように言われたのだ。そのことを悟らせるために、この骨折の意味があったのです。どのようなことにも、神の摂理が働いているのです。
眞柄光久牧師
11月13日特別伝道集会
宣教「暗闇の中で祈りを紡ぐ」(イザヤ9章1節)
城野俊行さん(大牟田フレンドシップキリスト教会執事)