いのちの主権

10.02:  宣教「いのちの主権」(創世記30:14~24) 

眞柄光久牧師
概要から

応答賛美 新生521「キリストには替えられません」

・与論島(よろんじま)と大牟田は石炭でもって、切っても切れない関係にあるということは、大牟田の人であるならば、だれでも知っていることではないでしょうか。その歴史、文化、習慣を、話すと長くなるので、今回は割愛しますが、与論島には「洗骨」という風習があります。亡くなられた人を一度、埋葬し、数年後の月夜の晩に再び掘り起こし、月の光のもとで、三日という限られた時間の中で、一族が集って、お骨の土を洗い落とし、きれいになったお骨に、まるで生きている人に話すかのように、話かけるのです。「おばあちゃん、久しぶりだね」などと言いながら、涙を流し、再会を喜び、愛しむように、おばあちゃんの頭蓋骨を腕に抱くのです。そうすると、おばあちゃんと過ごした楽しい日々がありありと思い出されるそうです。そして、不思議なことに、その頭蓋骨は抱くと温かく感じるといわれているのです。

・この前の主日は召天者記念礼拝でした。朝6時からの、早天祈祷会の時、誰もいない礼拝堂の納骨室を開き、そこに収めてある骨壺の一つ一つを、棚から出し、ほこりを落とし、棚をきれいにし、そして、骨壺を、再び、腕に抱き、祈り、お話してみたのです。

・本当は、私は怖がり屋で、お骨の入った骨壺を抱くなんてことができるような者ではないのです。むしろ、遠ざかっていたい方です。・でも、今回は与論島の洗骨の模様をDVDで見たこともあり、骨壺を抱くことには、怖さも、抵抗感はなにもありませんでした。

・早天祈祷会は主日礼拝と同じ形式でしていますから、イエス様と私、そして、棚に置かれた骨壺の人たちと共に、賛美し、祈り、宣教をするのです。

・誰も、居眠りもしませんし、瞬きもせず私をみつめて、熱心に私の宣教を聞いてくださっています。イエス様の「私を愛するか」とペテロに繰り返し尋ねられたのは、こういうことなのだなと皮膚感覚でわかります。あなたが生きているときだけでなく、死んでいる時、そして、永遠の命を得た時も、すなわち、どのような時でも私を愛するかということなのです。死んだら故人のお骨を納骨堂にしまい込んで、「はい終わり」ではなく、逝去された人たちも、いつか、わたしと共に永遠に生きる者として「私を愛するか」と繰り返し聞かれたのです。

主の忠実な牧師 眞柄 光久

10/09:主日礼拝「問題解決は神にある」(創世記30:14~24)

眞柄光久牧師