主の教会

05.08:  宣教「主の教会」(コリント一3:16~23) 

眞柄光久牧師
概要から

応答賛美 新生21「栄光と賛美を」

・みなさんのおかげで、久しぶりに東京に戻ることができ、家族団らんの時を持つことができました。ありがとうございました。

・大牟田で一人でいるのもなかなかいいのですが、家で、共に食事をしながら、「妻と娘がいるのもいいなあ」と、言いますと、「5日までだからね」と、念を押され、そうか自分はこの家では、もう期間限定の夫になってしまったのだなと、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とのイエス様の言葉を思い起こし、私の帰るところは大牟田しかないのだなとあらためて自分に言い聞かせました。

・今回の帰郷の目的は、骨折をした個所の手術をするかどうかを大きな病院で判断してもらって下さいとの主治医の勧めがあり、五反田のNTT関東病院で診てもらいました。

・常々、主治医には、私には神の聖霊が働いており、これぐらいの骨折は手術しなくても治るのですと言っているのですが、相手もなかなか頑固で、「私は手術派ですから」と。我を張るのです。しょうがないので、一応言い分を聞いて、東京の大病院で診てもらうことにしたのです。

・結果は、「これぐらいでは手術はしなくてもいいですよ」との見立てで、さすがに、聖霊がついているからとまでは言えませんでしたが、「手術無用」のお墨付きをいただき、胸張って主治医のところにいくことができます。

・今日の宣教は「主の教会」の題でいたしますが、教会は、キリストをあがめるところであり、キリストのからだとしてその栄光を現していくものです。私は自分の体を張ってそのことを証ししたわけです。

・教会は自分の好みで色々と選別できるところではありません。私も手術する、しないは、神に祈り、聞き、聖霊をいただいてのち、医者にかかりました。祈りが第一です。

・コリントの教会の信徒は、ほとんどがユダヤ人ではありませんでした。他の宗教の神殿みたいに考えていたのです。でも、教会のなによりの特徴は、聖霊を与えられた聖徒が集まるというところであることです。聖霊に満たされた兄弟姉妹によって、教会はまことのいのちに満ち溢れるようになるのです。眞柄光久牧師

5/15:主日礼拝「召された時のまま」(コリント一7:17~24)

眞柄光久 牧師