愚かな者はだれか

02.13:  宣教「愚かな者はだれか」(ルカ12:13~21) 眞柄光久 牧師
概要から

応答賛美 新生455「われに来よと主はいま」

・聖書のむずかしさの一つに、突然、脈絡のないエピソードがでてくることがあります。今回のところもそうです。

・この直前の話は、「イエスの仲間の話」なのに、突然、「愚かな金持ちの」のたとえの話 になります。

・なんで、どうしてと思います。聖書を読むことは一つのチャレンジなのです。小説であれば、なんだこれはと、読者は本を投げ出すことができます。でも、聖書は小説ではないので、読者に耐え、考え、読み続けることを要求します。

・今回のところは「群衆の一人が言った」と始まります。ここを読んだ人は、この人は誰だと思うにちがいありません。でも、それが誰であることは告げられません。私たち、その場にいた群衆の一人としてしか、その人のことはわかりません。わからないまま、満たされない気持ちで、読み続けなければなりません。

・そして、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、さらに混乱させられるような文が続けられます。

・そこで、また、私たちは忍耐力が試されます。そうです、聖書はある程度の忍耐力をもってしないと読めないものなのです。

・なんで、ここで、遺産分けの話がでてくるの、さっぱりわからない、もうやめたでは聖書は永遠にわからないものとなってしまいます。

・知りたい、知りたい、救いの奥儀、真実をなんとしてでも知りたいと、必死に願う人にだけ聖書は開かれます。

眞柄光久牧師

 

2/20:主日礼拝「低い人に向かう」(ルカ14:1~14) 

眞柄光久牧師