05.16
宣教「泥を塗られた目」(ヨハネ9:1~12) 概要から
応答賛美 新生484「救い主 王は」
・聖書を読み始めた頃、ヨハネ書を好んで読んでいました。「愛の書」と言われていたからです。ヨハネ書を読めば愛のことがわかる。そう思っていました。愛に飢えていたのでしょうね。でも、私が求めていたのは、神の愛ではなかったことが、今よくわかります。
・2節での弟子たちの質問にはがっかりします。「この人が目の見えないのは、本人か両親が罪を犯したからですか」と、犯人探しの質問をする。今の世も同じです。いつも犯人探しをします。
・自分は悪くない。悪いのはみんな他人だ。そういった人々を排除せよと声高に主張する。でも、それでは、結局は自分に跳ね返ってくることになります。人を非難し続けると、愛はみつからない。心は渇いたままに置かれます。
・イエスは、そのような人々に言います、「神の業がこの人に現れるためである」と。イエスはだれも非難されない。非難ではなく愛される。神の業とは愛の業であることをわたしたちに教えられる。救いは愛によってなされる。その愛を、私たちは持ち続けていたい。
・世を愛の目で見ると、いとおしく見える。限られた間の人生、愛の目で見るか、非難の目で見るか。愛の目で見る時、神の国は、ほら、そこにある。
眞柄光久 牧師
5/23 主日礼拝宣教「羊と牧者の関係」(ヨハネ10:22-30) 眞柄光久 牧師