十字架の言葉

03.28 宣教「十字架の言葉」  (Ⅰコリント1:18-25) 概要から

応答賛美 新生 221「血しおしたたる」

私が牧師按手を受けたのは1975年3月2日でした。そのお祝いに集まって下さった方々へのお礼は聖書に挟む布製の栞でした。その栞には「十字架の言は神の力」(Ⅰコリント1:18/口語訳)との御言葉を記しました。いわば、私の牧師としての旅立ちに当たって、拠って立つ福音の根拠でありました。そして、今日、49年の牧師としての歩みを終えるにあたって語る言葉も「十字架の言葉」です。キリスト信仰は一言でいえば「十字架信仰」です。神の御子が何故あのような死にざまを表すのか?この謎が解けたときに神の真理に近づくのではないでしょうか。その真理は神の義と愛のはざまにあります。神は愛です。この言葉は受け入れやすいでしょう。しかし同時に神は義を貫く神です。以前用いていた教団讃美歌262番に「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ」との歌詞がありました。神は義なる神です。間違いを見逃して水に流すお方ではありません。罪人は審かれなければならないのです。しかし、「罪が支払う報酬は死」(ローマ6:23)です。神はこの「死」を引き受けてご自身が審かれたのです。それが罪なき神の御子の十字架の必然です。人間の理論を超えた真実の救いがここにあるのです。 牧師 金子 敬

4/4 主日礼拝宣教「思い煩いを癒される復活の主」 (ルカ24:13-35) (福井協力牧師)