神の業が現れるため

07.26 宣教「神の業が現れるため」(ヨハネ9:1-12)概要から

応答賛美 新生 651 「イエスの愛にこたえ行く」

ヨハネ福音書9章は、生まれつき目の見えない人をイエスが癒された物語です。弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(ヨハネ9:2)と問いかけます。いわゆる因果応報の考えがイエスの時代にイスラエルでも認められる例です。出エジプト記の十戒の中に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問う」(出エジプト20:5)とあり、一見これを支持しているかに見えますが、これはそれに続く「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(同20:6)との比較で読み取るなら、「幾千代にも及ぶ慈しみ」が強調されていることが解ります。主イエスは弟子たちに対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(ヨハネ9:3)と因果応報を否定し、過去に縛られず未来に向かう課題として受け止めるよう求められ、「神の業がこの人に現れるためである」(同節後半)と語り、この世の困難に対して世の光として立つように求められたのです。キリスト者が神と共に働く場は、ここにもあるのです。   牧師 金子 敬

08/02 主日礼拝 宣教「神が立てた平和の計画」 (エレミヤ29:4-14) 金子 敬 牧師