12.05: 宣教「霊的に盲目な者」(マルコ3:20~35) 眞柄光久牧師
概要から
応答賛美 新生176「主は豊かであったのに」
・ここの聖書個所でもそうなのですが、イエスにつきまとっている律法学者たちは、ただの一度もイエスの教えを受け入れようとは思わなかったのだろうかと思うのです。
・目の前で、重い皮膚病の人が治ったり、12年もの間、長血で苦しめられ、財産もつかいはたした女性が、イエスの服に触れただけで、一瞬にして直ってしまったとか、手の萎えている人の手が動くようになったり、歩けない人が歩けるようになったり、イエスの数々の奇蹟を見、また、教えを聞いて、受け入れるようにはならなかったのかなと思うのです。
・なにが彼らをそうさせなかったのでしょうか。お金、地位、名誉、誇り?いや、彼らもプロの宗教者です。捨てようと思えばそれらを捨てることもできたでしょう。
・でも、しなかった。それは、彼らには「信じる心」がなかったのではないかと思ったのです。「信じる心」を持つ人は今の世でも少数です。大多数の人は持ちません。神を信じるなんて、何の得にもならないめんどくさいことはしないのです。
・イエスを見て、神と信じる心、イエスを見て神と信じない心。どちらも心にはちがいありません。
・でも、一つだけ違いがあります。イエスを神と信じる人の心には、例外なく「神の愛」があります。信じない人の心に「神の愛」を見ることはできません。
眞柄光久牧師
12/12:「みことばを蒔く」(マルコ4:1~20) 眞柄光久 牧師