みことばを蒔く

12.12:  宣教「みことばを蒔く」(マルコ4:1~20)     眞柄光久牧師

概要から

応答賛美 新生544「ああ嬉しわが身も」

・昔の「不惑」は40歳。今は70歳。不惑は人生に惑わないということ。この前の10月に72歳になってやっと人生に惑いがなくなってきたような気がする

・なぜこんなにも時間がかかったのか。神も、そして、人も「愛」で成り立っているということを長い間悟れなかったこと。

・同じ愛でも、「自己愛」に捕らわれ過ぎていた。それは、人を世界を神との関係をも壊してします。

・「自己愛」が取り去られた時に、神の愛がじんわりと沁み込んでくる。神の愛を妨げていたのは「自己愛」だったのだ。

・身体の、あるいは知覚に不自由さを持つ人たちとの交わりの中で、「自己愛」で愛そうとすると無理になり、同情であり、かわいそうだという気持ちになりがち。でも、神の愛で愛する時、互いの間は自由で解放されている。この世の価値感にも捕らわれない。笑えば笑う。泣けば泣く。怒れば怒る。おいしいねと言えばおいしいねとうなずく。おもしろいことはおもしろい。祈ってくださいと言われれば、いっしょに祈る。

・からだも知覚も不自由で、あたりまえと思うことができないのではない、あたりまえのことをさせないわたしたち。

・かたくななのは自分は自由で好きなことができると思いこんでいるわたしたち。神の愛のないこころの不自由さ、解放されていないことに気づかない。自分の方こそが束縛され、不自由であることに気づき、涙流すとき、神は拒絶されず、受け止め、愛してくださる。こころの中の愛が光となって輝くわたしたちのクリスマス。眞柄 光久 牧師

 

12/19:クリスマス主日礼拝「人となられたキリスト」(ヨハネ1:9~18)眞柄光久 牧師
12/24:クリスマス イブ礼拝「永遠の王なるキリスト」(イザヤ11:1~9)眞柄光久 牧師