断食するときには

3/10 宣教「断食するときには」(マタイ6:16-18)概要から~

応答賛美 新生626「主はいのちを与えませり」

ユダヤ社会の中で、「施し」と「祈り」と「断食」は三大善行として奨励されていました。しかしこれらの行為は人に見せたくなるもので、主イエスはこれに潜む偽善性を語られ、隠れて行うように注意しておられます。人に気づかれずに行う善行を神は見ておられ、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:4、6、18)と重ねて約束しておられます。さてレント(四旬節、受難節)を過ごす私たちも、自らのこととして静かに考えてみたいものです。施しは右手のすることを左手にさえ知らせずに行うこと、祈りは奥まった部屋で戸を閉じて行うこと、断食は人に気づかれずに行うこと、とあります。私たちはどうでしょうか?他人にも見てもらいたいとの思いがわずかでも入り込むなら既に「報いを受けている」(同2、5、16)のです。自分にあるものを他者のために手離す「施し」や、必要以上を求めない「断食」に徹するならば、主が教えて下さった祈り(わたしたちの祈り)の精神である“貪りからの解放”に導かれ、社会構造的弱者に寄り添って生きる共生の道を可能にするのではないでしょうか(参照イザヤ58:6-8)。 金子 敬

3/17 礼拝宣教「イエスとユダ」 聖書:マルコ14:10-26  堤嘉宏執事