キリスト者の和解の務め

5/11:復活後第三主日宣教「キリスト者の和解の務め」 

コリント二5:16~21 福井正躬協力牧師

応答賛美460番「戸口の外にイエスは立ちて」

私は1938年生まれで、1945年に東京武蔵境国民学校に入学しました。戦争体験者でなく、戦後体験者です。同年8月玉音放送で終戦を知りました。7歳でした。生活が急変するのを実感しました。父は鉄工所の責任者でしたが、工員の方々が自害したことの知らせに苦悩した様子でした。親戚の方にも、防空壕で焼身自殺した連絡があり、母に連れられて遭いに行きました。家族は工場の寮を出ることになり、父の実家のある佐賀に移りました。その頃から極東国際軍事東京裁判が始まり、戦争に関わった国家と個々人の調査が始まりました。詳しいことは、子供の私には理解できませんでしたが、裁判の対象となった人たちに「あなたは有罪ですか」、「無罪ですか」の問いに、全員一人一人「私は無罪」ですと主張されたのは不思議に感じました。人が人を裁くのは大変なことと思いました。更に難しいのは    「和解」だと、後に強く感じました。80年が過ぎた今日も多くのことで和解できていません。聖書は「人間的標準」では解決の糸口さえ見えないことを示してきています。神から出て、キリストの内に宿る神との和解がなくては永久の和解はないのです。キリストが十字架により確立された和解の務めを、キリスト者に託されているのです。昭和34年頃バプテスト連盟の少年少女会が盛んでしたが、干隈山の家で集会が毎年開かれ、「あなたがたは“RA(ロイヤル・アンバサダー)”です、キリストに遣わされている大使です。使命を果たせる器になるように祈りに励みましょう」と導かれ、多くの献身者が育ちました。リバイバルを祈ります。
福井 正躬 協力牧師

5/18:復活後第四主日宣教「悔い改めない者に下るさばき」 

民数記24:10~25 眞柄光久 牧師