3/9:受難節第一主日宣教「完了した」
ヨハネによる福音書19:23~30 眞柄光久牧師
応答賛美234番「全ては終わりぬ」
・イエスは十字架につけられる。頭に茨の冠、手はくぎ付けされている。身動きできないイエスから、ローマの兵士4人がイエスの来ているものをはぎ取る。上着は4等分に。下着は、といっても、現代のものと違って長い上着のようなものである。縫い目のない一枚織のものなので、兵士たちは4分割しないで、くじ引きでだれが取るかを決める。
・当時、死刑囚の着物は、死刑執行する者が取ってよいと言うことになっていたので、兵士たちはくじびきをして取る。
・これはまさしく、詩篇22編19節のそのものずばりの具現化である。
・聖書にはこのようなことが多々ある。
・26節でイエスは十字架の上から、そばにいる愛する弟子(ヨハネ)を見て、母であるマリアに「婦人よ」と呼びかける。
・同じようなことは2章の4節でも起きている。カナの結婚式の時のことである。
・なぜ、イエスは、母マリアに向かって、「お母さん」ではなく、聞きようによっては冷たく感じる「婦人よ」の言葉を用いたのか。そのことによって、イエスは母の気持ちが分かっていないとでもいうのだろうか。
・否、息子を失う母の気持ちを、イエス以上に知っていた者はいない。それだからこそ、イエスは母マリアに向かって「婦人よ」と呼び掛けたのである。
・イエスは立った一人で、神の業を成就しなければならなかった。たった一人で。
・そこには「お母さん」と呼ぶ、この世的な親子の愛情を示す言葉の入る隙間もない厳しい神の業の成就であるからだ。
眞柄 光久 牧師
3/16:受難節第二主日宣教「信仰の訓練」 民数記1:1~19 眞柄光久牧師