2/23:受難節前第二主日宣教「人生で豊かな実を結ぶためには」
ヨハネによる福音書15:1~8 眞柄光久牧師
・新共同訳は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と。 岩波訳はもっと直截的で「私は本物の葡萄の木であり、私の父が栽培者である」と、訳しています。
・イエスは、真実そう呼ばれるにふさわしい<ぶどうの木>なのです。なぜなら、イエスはぶどう園の主が求めているような、ぶどうのつるを自分から生じさせ、実り豊かな若枝を生えさせる力を、真に持っておられる方だからです。
・ぶどう園の主は、イエスの父なる神です。御父はイエスを、ぶどうの木としてこの世に植えられました。このぶどうの木は御父のために生えます。また御父のためにつるを生じ、御父のために実を実らせます。
・このたとえには、イエスのキリストとしての務めを含む一切が要約されています。
・今、神にとって地上に実りが生じ、神のために生き、神を知ってほめたたえ、自分のものを神に献げる人々を生み出します。
・このことは、イエスのキリスト[救い主]としての御業にほかなりません。このような人々は、ただイエスによってのみなります。そして、イエスと並んでほかのぶどうの木は存在しません。
・ぶどうの木はイエスであり、そこから生え出る若枝は弟子たちです。それゆえ、弟子たちから生ずる実りは、ぶどうの木や若枝が事物でないように、なんらかの事物ではありません。弟子たちが神に導く人間、彼らの奉仕によって神に導かれる教会、これこそ、ぶどうのつるに生ずる「実り」なのです。
眞柄 光久 牧師
3/2:受難節前第一主日宣教「彼らのための主の祈り」
ヨハネによる福音書17:9~19 眞柄光久牧師