悲しみに打ち勝つ復活の信仰

2/9:受難節前第四主日宣教「悲しみに打ち勝つ復活の信仰」

ヨハネによる福音書11:17~35 眞柄光久牧師

・イエスはたとえ愛するラザロが死んだと言われても、十字架への歩みをとどめことはありませんでした。

・目の見えない人の目を開かれたことも、ラザロを生き返らせることも、十字架にかけられ、殺され、復活することの予兆と捕えることのできる出来事です。

・ラザロが確実に死んだと、だれもが納得できる4日後に、イエスはマリアとマルタのもとへ、弟子たちと共に来られました。

・イエスは弟子たちに「ラザロは死んだのではない、眠っているのだ」と、言われました。イエスにとっては、ラザロの死も、神の栄光を表す機会以外のなにものでもなかったのです。

・イエスをメシアとして信じているマリアとマルタの信仰をもってでしても、イエスがラザロをよみがえらせられるとは思ってもみなかったのです。4日もたったのだからラザロは死んでしまった。もう少し早く来てくださったなら、死ぬことはなかったのにと、二人は、イエスに泣きながら訴えました。

・マリア、マルタ、弟子たち、そしてそこに集まった多くのユダヤ人たちの前で、イエスは罪と死が世で横暴をなしていることにまず憤られ、また、涙も流されました。

・父なる神の一人子であるイエスは、ラザロを即座によみがえらせることもできるのに、そうして、人々を驚かせ、喜ばせるのではなく、悲しみに打ちひしがれている人々と共に悲しまれる人でもあられるメシアとしての姿も示されたのです。

眞柄  光久 牧師

2/16:受難節前第三主日宣教「謙虚な心で周りの人に仕えよう」

ヨハネによる福音書13:1~11 眞柄光久牧師