11/17:秋の特別伝道集会「神様のみこころで」
マタイによる福音書28:18~20 大牟田ロゴス教会 李 台植 牧師
応答讃美歌:334番「来ませ 来ませ」
私は日本に来る前に宣教に関する博士論文をいくつか読んだことがありましたが、ある人がこのようなことを言っていました。「宣教は神様がなさることだ。」 当然の言葉だと思いながら読み進めたら、宣教(魂の救い)は神様がなさることであるため、私たちが直接福音を伝えたり、伝道しようとする必要がないということです。人々に不快感だけを与え、むしろキリスト教のイメージを失墜させるということです。この言葉について、皆さんはどう思いますか? 同意していますか?
本文の御言葉は、イエス様が復活されて天に昇られる直前に弟子たちにおっしゃった御言葉で、すなわちこの地上で最後の瞬間に弟子たちにおっしゃった内容であるため、非常に重要な位置にある御言葉として認識されている内容です。特に、イエス様の弟子たちは五旬節(ペンテコステ)聖霊降臨の出来事の以後から、この御言葉に従ってイエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝え、大部分殉教で生涯を終えました。福音を宣べ伝えることがしても良いし、しなくても良いことなら、イエス様の弟子たちが殉教をしてまで宣べ伝えることはなかったでしょう。イエス·キリストの命令は、しても良いし、しなくても良い選択事項ではありません。必ず従わなければならない創造主の神様の厳しい命令なのです。これを私たちは「地上使命」と言います。本文の御言葉はイエス様の命令ですので、動詞を中心に見てみると、命令形でおっしゃった動詞は三つ現れています。“あなたがたは、「行って」(命令分詞)、「弟子としなさい」(命令形)、「守るように教えなさい」(命令分詞)”です。「バプテスマを授け」という御言葉は、命令形の動詞ではなく、現在分詞でおっしゃいました。ですから、「行って」(命令分詞)、「弟子としなさい」(命令形)、「守るように教えなさい」(命令分詞)、この三つの御言葉が、イエス様が命じられた御言葉なのです。宣教は神様がなさることは確かです。死んだ魂を生かし、救ってイエス様の弟子として生きていくようにすることは、私たちができることではありません。救いは神様にあるからです。ただ、私たちは命じられた御言葉に従い、福音が全世界に宣べ伝えられて、イエス様が再び来られる主の道を用意する福音の通路にすぎません。いつ再び来られるかは私たちは分かりませんが、使徒たちの足跡に従って、イエス様が再び来られる日まで十字架の福音を宣べ伝える地上使命を忠誠に果たす、すべての神様の聖徒になることを命の主であるイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
李 台植 牧師
11/24:終末主日宣教「苦難と迫害の中で」
ヨハネの黙示録3:7~13 眞柄光久 牧師