9/22:三位一体後第十七主日「幸いな人生を送るためには」
ネヘミヤ記11:1~9 眞柄光久牧師
応答讃美歌:544番「ああ嬉しわが身も」
・「幸いな人生」とはどういう人生のことを言うのだろうかといつも考えています。
・たいていの人の考える「幸いな人生」とは、( )(かっこ)付きの人生です。(自分にとっては)とか、(自分の家族にとっては)とか、(自分と縁者一同にとっては)と、すべて(自分)というかっこ付きの人生です。
・かっこなしの「幸いな人生」を考える人は少ないと思います。たとえば、今日の個所にあるように、神が臨在される共同体を尊ぶ人生が「幸いな人生」だと思われる方は、ほとんどおられないのではないでしょうか。
・バビロンからなんのためエルサレムに帰ってきたのでしょうか。崩れ落ちた城壁、焼け落ちた城門、捨て去られていた神殿の再建して、異邦人から侮れないために帰って来たのです。
・帰還者たちと、もともといたユダの人々が心を一つにして、無報酬で、熱心に働いたがために、52日で、再建を終えることができました。
・でも、住む人が少なかったのです。エルサレムは、まだまだ、周辺の国々から脅かされており、住むにはいのちがけの心づもりでいなければ、住めるような状態の町ではなかったのです。
・それでも、「神が臨在される町」で住むことが「幸いな人生」であると考える人たちがいました。少数ではありますが、そういう人たちが、いのちの危険も顧みず、住み始めたのです。
・十字架につけられることが分かっていたのに、キリスト・イエスはエルサレムに向かって行きました。キリストにとっての「幸いな人生」は、父なる神のみこころに忠実に従い、十字架につけられ、殺されることでした。
・その贖いによって、永遠の命への道が開かれる「幸いな人生」が私たちに与えられたのです。
眞柄 光久 牧師
9/29:三位一体後第十八主日「永遠を想う心」
コヘレトの言葉2:9~13 福井正躬 協力牧師