06.06
宣教「ラザロの死」(ヨハネ11:1~16) 概要から
応答賛美 新生544「ああ 嬉しわが身も」
・人は何歳ごろから「死」を意識するようになるのだろうか。
・私は、小学4年生の時に映画「シッダールタ」を見た時からだ。これは釈迦の物語で、釈迦が王宮から出て、ガンジス川に流される死者を見て、出家を決心するところ。その時のシーン。川を流れる死者のシーンを見て、うなされるほどの恐怖心に襲われ、夜寝るのが怖くなった。死を考えだしたのはそれからだ。
・人間の思い、力ではどうにもならないものがある。それは生まれること、死ぬことだ。
・人の生死は神の奇蹟と言っていい。
・イエスは言われた、ラザロが病気であることを知って、「この病気は死で終わるものではない、神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。
・イエスはラザロの死を通して神の栄光を現わそうとされたのだ。キリストにある者にとって、死は終わりではない。死が終わりであるならそこにあるのは虚無と絶望だけだ。
・キリスト者は死んでも、後の日に新しいからだに復活させられ、それを通して神の栄光が現される。
・神はご自分の栄光を現す時を、み子イエスに示し、イエスはその時に合わせて行動された。
・信仰生活で失敗することがあるのは、神の時を待てないからであることが多い。日々みことばに触れ、祈り、他を愛し、正しい道を歩めば、いつのまにか、神の時が来ていることに気づく。
牧師 眞柄光久
6/13 主日礼拝宣教「疑わずに信じる」(ヨハネ11:17-37) 眞柄光久 牧師